娘の映画館デビューは『タンタンの冒険』なり!! [娘]
娘のストライダーデビュウに託す父の想い [娘]
今5月、娘の3歳の誕生日プレゼントにターボ三輪車(後ろにキックボード部が付いているのをこう言うらしい)を贈ることを決めてネットで注文したのち、GIANTのホームページで(これから述べることになるSTRIDERと同種の)「ノーペダルバイク」というものの存在を初めて知り、「こっちのが良かったか、まぁ来年だな」などと思っていたところ、その後このノーペダルバイクを猛スピードで駆る2歳児(オノコ)を目撃してはなはだショックを受け、その余韻もとうに薄らいで消えていようかという昨日、まったく別件の買い物の用事でショッピングモールを徘徊していたら、このSTRIDERのモノこそがノーペダルバイクの火付け役であった事実を今更ながらに気付いたのをきっかけに一気に購買欲のボルテージが沸点に達しw、その場で衝動買いしてしまった次第。親子揃ってジャイアントバイクつーのも乙なもんだよなぁと思っていたけれど、これも何かの数奇な縁と思うことにして、脊髄反射的に即買いしたことは後悔していない。
んで肝心の娘の反応であるが、ヘルメットにプロテクター装備という要請されるファッションに目新しさもあってか、なかなか良好のようである。まだまだあのコモドドラゴンみたいな走り方には、「何でこんなことに労力使わなくてはいけないのか?」的な戸惑いも感ぜられるが(フツーに三輪車に乗った方が速くて楽だし)、坂道で走ることによって「(同語反復になるが)速く走れば速いしバランス的に安定する」ということの”旨味”を体得してくれれば、どんどん練達していくに違いない。曲乗りできるようにまでなって、両親を驚かせられるようになるのは果たしていつの日か。
ちなみに自分が自転車の乗り方を覚えたときには爪先立ちでも片脚しか着かないような大きい自転車があてがわれて、当時の自分にとってはいきなり大型トラック運転せよと言われているようなもんだからだいぶん苦心惨憺したという苦い思い出になっているのであり、その反動もあってか娘にはなるたけスムーズに自転車という、己の行動範囲を劇的に拡大せしめる交通手段を獲得して欲しいと思っていたのだが、その父の想いを託されたのが今回「補助輪」ではなく「ノーペダル」というわけなのである。しかしこれって新しい手法かと思っていたら義父が「昔は(自転車)のペダル外して覚えたもんだ」などと言っていて、古来より伝わる常套手段なのだなぁということをこのたび知ってよりその効果に期待を深めた次第である。
作品No.03『Untitled02』 [娘]
作品No.03:『Untitled02』
この画を眺めていると思い出されるのが、小学生の頃に流行った(自分だけかもだが)心霊写真本。なんでわざわざあんな悪趣味なものをお金払ってまで手に入れたかったのか、当時の自分の心境は測りかねるものがあるが、手が一本多いとか脚が写真に写ってなくて切れてるとかぐらいはまだまだ序の口で、いまいちどこに何が写っているのか判然としないものもあって消化不良を起こしたりなんかしつつ、でも一冊に一枚くらいはすこぶる恐ろしい出来のものがあって、霊能者の解説なんかに「既に半妖怪化している」(苦笑)なんて書かれてた暁にゃ、もう身の毛がよだつような思いがして、恐ろしさのあまりだんだんとその本が疎ましくなってくるというw
でもご丁寧に「この本(写真だったか)はお祓いしてありますから大丈夫です」なんて前書き・後書きに書いてあったりするものだから、お払いして頂いたものをみだりに捨てたりなんだりしてもよいのだろうか?とかえってこの本に縛りつけられてしまったような思いにかられてしまい、窮余の一策としておかんの衣装ダンスの奥底にそっと忍ばせておいたというw
それで長々と昔話をしてしまったので進路を元に戻すが、なぜこの画が心霊写真を思い出させるかというと、例えば写真中に顔のようなものが写っているとして、写真そのままの状態では朧げすぎてよく分からないということから、編集部の方で写真の上に「ここにこーいう顔の形がありますよ」という感じで丸で囲んでみたり、顔そのものをなぞったアナザバージョンを併置するということがままあって、後者のパターンの方にこの画が似ているというから、たったそれだけなのである。
試しにやってみると・・
こーいう感じ。くだらない話だとは思われるだろうが、それでも分かる人は分かってくれると思う。
作品No.02『おなかのあかちゃん』 [娘]
作品No.02:『おなかのあかちゃん』
この辺りの時期から描いたらすかさず嫁が「これなーに?」と聞くようにしたものだから、タイトル及び内容の説明が残るようになってきており、作者の制作意図を容易に汲み取ることが可能となっている。
顔は依然として丸三つ。進展が見られるのは手・足が付け加えらるようになっていること。相変わらず白丸だがwそれとあのミジンコだかクンショウモだか水生微生物を思わせる繊毛のようなものが、髪の毛なのかそれともスピード感を表しているのかはいまだ定かではない。
驚くべきは人間の生態について既に知っているのか?!というところ。赤ちゃんはお腹にいるものだという理解のもと、それを白丸で表している模様だ。子供の話し出しはじめの頃に過去の記憶について質問すると、「お空にいたの」などと摩訶不思議な答えが返ってくるということを聞いたことがあるが、娘も実体験として、赤ちゃん=すなわち自分がかつて居た場所を覚えていてそのうえで描画しているのであろうか。
ミジンコのようなビジュアルに、生命の起源という謎を孕んだこの絵は、アーティスティックというよりはサイエンティフィックな魅力の溢れた作品であると言えるだろう。
娘・初個展『サクラカクカキケリ~さくら、斯く描きけり~』の開幕 [娘]
作品No.01:『Untitled01』
子供が最初に描き出すものはやはり顔なのだろうか。ただ当時の娘は輪郭を自ら描くということはせず、輪郭たり得そうなものの中に目口を書き入れるという手法から取り組み始めたのであって、この場合それはちぎった包装紙だったわけなのであるが、さながら一反木綿(妖怪ね)の親子といった風情のこの奇妙な一家団欒図において目を引くのは、やはりあの白丸三つに端的に表れている、名状しがたいボンヤリ感だろう。試しに真似をして描いてみても、筆致といい絶妙な配置といい、この味は自分にはなかなか出せない。
○ ○
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・・うーん、茫漠としているが決して空虚ではない、かといって豊かとも思えず、例えるなら蜃気楼に揺れる広大な砂漠を眺めるような感じであろうか。娘の私的絵画史におけるこの”丸三つの時代”は年を跨いでも、しばらく続いてゆくこととなる。
御桜様生誕祭(1日過ぎたがw) [娘]
ところで、別に原発事故以前からそういう風にみなしていたので、改まって言うことでもないのですが、今この放射能禍に見舞われているたくさんの親あり子ありの状況において、人の親になってまだ3年という駆け出しといったところの自分なりに一つ言っておきたいことがあって、それはつまり、「子供は何故だか我々んとこを滞在先として選んでやって来てくれたお客さん(エドワード・ゴーリーよろしく"うろんな"の冠詞を付けるべきだがw)」だということです。
このお客はこの世界のことをよく知りません。かつ至れり尽くせりの最上の待遇を要求してきます。この辺は大いに分かるだろうし苦笑もしたくなるところだと思うのですが、その先が重要だと思うのです。すなわちこのお客さんはやはりお客さんなのであって、いつの日かこの世界における最初の滞在先であった我々の元を発つときが来るということです。我々はそれまでの間、「どこへ観光に行ったらいいのかわからない」というこのお客さんを案内して回り、この世界の食事作法やしきたりなどについて教えてあげたりもしますが、我々が真にしなければならないのは、お客さんがウチに滞在している間は無事であるよう配慮を怠らないということです。
子供たちの多くが適切に放射能リスクについて把握しているとはいえない現状にあって、こうした考えは行動や決断を成すのに重要な指針たりうると思うのです。子供じゃ分からないんだから親が決める、それはそれでいいのですが、やはり「お客様の滞在中の安全を万全に確保する」という最前提を守ったうえで何事かが決められ、何事かが成されねばならないと思うのです。親には社会的事情というやつが山積し、しがらみというやつでがんじがらめになっているというのは分かります。でもお客さんにはそんな裏舞台は関係ありません。快適で安心な滞在時間さえもたらされれば良しなのです。
自分は今回の子供の放射能リスクについても、極めて平易な日常的事例に例えて考えております。車の往来の激しい車道沿いの歩道を歩く時、何となくイヤだから車道に近い側に自分が立つとか、ベランダへの鍵がかかってない部屋で子供を一人遊ばせるのが何となくイヤだとか、そんな感じ。放射能の場合(長半減期放射性物質が検出されている以上)この何となくイヤな感じが今後数十年に渡って続くことが疑いないわけです。そしていればいるほどそれが単なるイヤな感じで終わらない実害となる可能性が高くなってくると。だから娘は今のところもはや福島の地を再度踏むこと能わないようになっているわけなのです。不穏さと不安さの中で親子ともども生きるくらいなら、どこか遠くでもいいから大手を振って歩きたい。
サラ・コナーが「嵐が来る・・」とでも呟きそうな風を伴った大雲が眼前にそびえる中、大曲に広がる水の入り始めた田んぼの畦道を、頼り無さげに歩いてゆく娘の華奢な背中を眺めていたら、いくら3歳になってよく喋り一丁前に自己主張し、アクションもだいぶハードになってきたとはいえ、この子は守るべき大事なお客様なのだったということを再認識し、同時に彼女が我が家をホームステイ先として選んでくれたことの喜びを改めて噛み締めた次第だったのです。おれたちんとこに生まれてくれて、ありがとう。
娘の味覚の純潔さを守っていきたい [娘]
我々のような、あらゆるイカサマな味に慣れきってしまった大人にとってそれは、本物のいちごの味とは全く違っていてもそれでもなお、鬱陶しいくらいこれはいちご味以外の何物でもない(すごい香料!)、それが至極当然の認識なのであるが、娘にとってそれは本物のいちごの味には全く似ていない、ゆえにこれはいちご味ではない、というわけのようなのである。
よくよく考えてみれば娘のその(あるかもしれない)論法というものは、当たり前といえば当たり前のことであるし、正しすぎるくらい正しいことだとも言えるわけで、とくだん驚くにあたらないのかもしれないけれども、「本物のいちごの味もいちごの味ならば、いちご風味菓子の味もまた一方でいちごの味である」というこのダブルスタンダードを是としつつ長い間生きてきてしまった、自分のようなスレた人間にとって、その夜娘が見せた味覚に対する正当な判断は、目からウロコが落ちるような思いがするものであったし、何にも汚されていない純真を発見したような、感激をもたらすものであったのだった。
今の娘の舌にかかれば、バナナ味やメロン味といった、あの手の「実物の味とは全く別種の風味」のものも、まったく何の味だか認識できないんではないのだろうかと推測されるのだが、それはかえって良いことなのだろうと思う。あれらをメロンだバナナの味だとあっさり認識できたうえに、「全然味が違うじゃん」とも不服を訴えることなく受け入れてしまうような状態というものは果たして幸福なのだろうか?という気がするし、「味が違うから」といってその手のイカサマ味のものを断固として拒否するまでしなくとも、「何の味だか分からないがとにかく美味しい」、そんな程度の適当な認識で臨んだ方が、その風味についてやや幻想を持ちながら楽しむことが出来るのでかえって良いのではないかと思うのである。
たぶん我々もこれまでの人生において、そういったイカサマ味に初めて遭遇したときには、「これ全然いちご味じゃないじゃん」と思ったに違いないのである。だけどだからといってその手から捨て去ることはできなかった。なぜなら「甘いから」、或いは「美味しいから」。そうやって砂糖の(文字通り)甘い誘惑に屈しながら、「二つのいちご味」を許容し看過できる認識というものを形成していったのであろう。
できるならば娘にはそうはなってほしくはない。「偽者いりません!」というような徹底したナチュラリストにまでなってしまったらかえって不幸かもしれないものの、とにかく味覚において(他においてもそうだが)真贋を見極め正しい評価をし、筋が通った態度のとれるような人間になっていってほしいのである。そうしてそのうえで嘘は嘘なりに楽しめるような余裕ある姿勢でもって叫べるようになればいいのである。「イカサマ味、最高!」と。味覚については札付きの不良である父と、いつか一緒にそう叫ぼうぜ、娘よ。
就寝前の絵本読み聞かせTips [娘]
(短い絵本や仕掛け絵本はNG)
文量が少ないとたちまち読み終わってしまってそこで娘に「もう一回この絵本を読むかどうか」や「次はどの絵本を読むか」という思考の余地をもたらしてしまい、眠りへの誘いを妨げることになる。また、娘が自らページをめくってみたくなるような仕掛け絵本なども、ページをめくるというアクションが伴うことによって、娘が眠りにつきにくくなる。ピープー音が出るような絵本なんかももってのほか。
(短い絵本を読めとせがまれた場合の牛歩戦術)
前項のとおり短い絵本はNGということで、親としてはなるべく文の多い絵本を準備しようとするわけなのだが、先手を打たれて子供の方から「この絵本を読んでくれ」と、短い絵本を所望されることがままあり、ここで下手に抵抗すると娘の機嫌を損ねてしまい、もはや安眠どころではなくなってしまうものであるから、ここはひとまず抑えて娘の望むとおりにすることにしつつ、今度は短い絵本をいかに長く保たすかという方に腐心していった方がよい。その手法を以下に示す。
①ゆっくり読む、ページをめくるのにも十分に間を取る
基本はこれ。読むのにもめくるのにもスローテンポで取り組めば、自然と口調も穏やかなものになり、より導眠効果を高からしめることになるだろう。問題は親の方もこの影響にやられて眠くなってくるということで、特に静まりかえった室内に、ページをめくる時の紙の擦れる音のみが鳴っているあの感じとか、思い出すだけでも眠くなってくる。
②書いてある文以外のことも挿絵などから見つけてきて語って嵩増しさせる
いわばアドリブ朗読。絵本をただ読むだけでは早々に終わってしまうことから、挿絵などを参照しながら修飾文や説明文を増やして一回の読み聞かせにかかる時間を稼ごうという試み。親の方にもそれなりの観察眼や才覚が問われるので疲れる(ゆえに自身が眠くなることはあまりない)。あんまり付け足すことが(見つけられ)無さ過ぎて、「青いねぇ」とか「大きいなぁ」とか、修飾と説明とが一向に膨らまずに単発に終わってしまうのが続くと、自分の情けなさにガッカリしてくる。タブーなのはうっかり「○○じゃない?」とか「○○だと思う?」とか、娘への語りかけ口調になってしまわないこと。対話になると俄然娘の意識がモリモリ目覚しくなってしまう。
③絵本を途中でループさせて永遠に終わらないようにする。
絵本の形式が同じパターンの反復だったり、物語に進展はあるもののその殆どが登場人物の増加という部分のみに尽きているような場合で、かつ、娘がこのトリックに気付かないほどある程度眠くなってきている場合に有効。絵本が終盤に差し掛かったらヒョイと最初の方に戻ってしれっと頭から読み返すのである。具体例で言うならば、『大きなかぶ』においてかぶが抜けて(絵本が終わって)しまう前に、おばあさんを呼んで来て二人でひっぱる時点あたりに立ち戻って読み返し、娘が眠りに落ちるまでかぶが抜けそうになったら同じことをひたすら繰り返すということ。
これは絵本をループさせようとするときに、「娘が気付くかどうか」というちょっとしたスリルがあり、親の方にそういった密やかな愉しみが生まれるというのがいい。『インセプション』の夢世界において、ペンローズの階段にターゲットを引き込む、みたいな感じ。こうして絵本をループさせながら読んでいると、何だか絵本の物語の定番であるあの反復形式は、子の親がまさしくそのようにして用いる為にあるような気すらしてくる(無い無いw)
以上。もしこの記述が誰かの同情や感興を誘ったりあまつさえ役に立ったりすることがあるようなら幸いである。子供の寝かせ方にはお父さんお母さん、みんな苦労していることと思う。子供が寝付いた後には両親の二人ないし一人だけの自由な時間が設けられるわけで、子供をいかにスムーズかつ迅速に寝かせられるか否かは、一人の人間としての尊厳においても、夫婦の円満な関係においても死活問題であるように思われる。みなさん、共に頑張ろう、そして子供が寝た後の、束の間のフリーダムというものを勝ち取ろう。
トマト・ジェリーのはなし [娘]
だいたいそこで流されていたのは、ドルーピーが幕間に出てくるのとかトムとジェリーが仲良しであるような、比較的製作年の若いバージョンではなく、それこそ半世紀以上も前に作られたハンナ・バーベラ最初期の作品なのである。ゆえに惹き付けられた、ということも大いにあるかもしれないが。なにしろ初期のやつは言うなればバイオレンスもりもりである。パンチが利いているとか、そんな小洒落た言い方では言い尽くせないほど、壮絶であるとさえ言えるような一編もある。
だがそれだからこそ良いのである。ヘンに規制されていず、ひたすら暴力的だからこそひたすら笑えるのである。世間一般的にもやはり初期作品の評価がべらぼう高いらしいし、自分もそうだと思う。子供の教育にいいのかどうかは知らないが、そういったものが地上波で普通に観ることができるような大らかな時代(ホラー映画も普通にやってたなぁ、『スキャナーズ』の頭部爆破シーンも確か地上波で初遭遇したんだった)に少年期を過ごし、それを存分に楽しみながら大人になった今、もう一度それを当時とほとんど同じ心境で観られるということを、少なくとも自分は幸運に思うし喜ばしく思うし、嬉しく思うのである。
そんなわけで、重ね重ねになるが、それが子供の教育にいいのかどうかは分からないけれど、時代を超越するような魅力をたたえる作品は、やはり小さい時から触れておいた方が良いと自分は思うわけで、せっかく娘が「トマト・ジェリー」と言い間違えながらも本作品に興味を示しているのだから、これを好機とばかりに是非ともガシガシ見せ付けてやりたいと考えている次第である。そもそもウチでは宝島社版のDVDを一枚既に所有していて、それを何回か娘に見せていたのだけれども、これまではさっぱり食い付かなかったというのに、今になってこの心変わりというのはどうしたことなのだろう?
一つには単純に娘が日々成長してきて、最近はテレビなんかを観ていても、追いかけ追いかけられのスリリングな展開やショッカー演出などに余裕を持って反応できる(「怖い!でも楽しい!!」)ようになったというのがあるのだろう。もう一つには本作品がほぼノー台詞で進んでいくので、今回は娘のことを想って、状況説明を兼ねつつ自分がまるで講談師のようにして合いの手を入れながら一緒に観たとことによって、以前より理解しながら観ることができたから、というのもあると思われる。
なんにせよ、娘のTJ熱が冷めやらないうちに自分も迅速に動く必要がある。すなわち娘をダシにしてせっかくだからDVDコンプリートを目指すということである。これを読んでいるであろう嫁よ、自分はかなり本気である。
娘と行く福島ラーメン道その2 [娘]
白河系ラーメンというものをここで初めて食べた。が、白河系ラーメン全般が好きになれるどうかはちょっと分からない。ただ少なくともここの手打ち麺のポコポコしたランダム感溢れる口当たりや、毎度全部飲み干したくなるスープは大のお気に入りで、近年の我が家の外食におけるこのお店の訪問回数は群を抜いている。駐車場がちっと狭いかもしれないが、座敷が2ブロック計4席あって大抵確保できるので子連れにはありがたい。お昼からぶっ通しで営業してくださっている反面夕方6時には閉店してしまうので、晩御飯時に使えないのがすこし残念だが。自分のお薦めは3種類のチャーシューが乗った炭火焼焼豚麺。味や食感が異なるチャーシューが3種類乗っかっているので、ボリュームの割には飽きずにガシガシ食べれてしまう。
めんや薫寿(福島市)完全禁煙だったような、座敷あり
場所的に少し分かり辛い?駐車場は店の表にはちょっとしかないが裏側にもある。ただしお店が線路の近い交差点に面しているので行き方によっては裏の駐車場に入りにくいのかも。ここは真鯛でダシをとったスープの薫寿そばが代表格のメニューになるのだろうか。麩がトッピングされていたりしていて見た目に少しユニーク。確かに鯛の味がふんだんにして、そしてうまい。細麺に飲み干したくなるスープ、全て我が家の好みを満たしている。同じ出し汁を用いているであろう鯛茶漬けを頼む人も多数見かける(自分たちはまだ未体験)。他にも豚骨醤油味の中華そばや味噌ラーメンもあって、「どれを食べても美味しい」とは妻の弁。なるほどそう言われればそうかも。自分がこの前食べた平打ち麺でのつけ麺もたいそう美味しかった。来るたびにひたすら同一メニューを頼むというタイプのお店ではないので、「次はこれを食べよう」などと考えるうちに結構足しげく訪れているような気がする。
完熟らーめん本丸(福島市)ランチタイム禁煙、座敷なし
いつも混んでて並ぶイメージ。時間帯禁煙だし座敷もないが親子三人カウンターに座って食べるのも辞さないで定期的に訪れたくなるお店。まー家族全員の総意というよりは、こってり好きな男たる自分が主導して行く感じなのだけれども。こってり豚骨醤油の黒丸らーめんと、ゆずの香るあっさり醤油味の白丸らーめんとあるが、前者もそれほどどぎつくはなく結構スッキリとしていて毎回スープは完飲ペースでお腹に入れてしまう。どちらも甘めな味付けなのが自分にはバッチリ嵌まる理由だと思われる。先日行ったらよりコッテリを謳った新メニュー(名前は失念)が出ていてそれを頼んだが、これも全然飲み干せて美味しかった。速攻下痢したけれどw
これでひとまず。次点としては、
まだ一回しか行ってないものの無化調をうたって非常に気になる福島大学前の麺やうから家から、
福島市内にある正月屋分店支那そば石川屋、
久しぶりに行ったら禁煙になってた支那そば二階堂
なんかももっと行ってみたい。
それからラーメンのみならず、子連れで行きやすい外食店という括りでお薦めのお店をまた本ブログにおいて紹介できたら良いなぁと考えている。果たして継続ネタとできるか否か。禁煙度とか座敷・個室の有無とか、子供椅子や取り皿等の施設状況やトイレのホスピタリティ、帰りに飴ちゃん出されるかどうかなどw、データベース化出来たならば、少なくとも福島県北在住の子を持つお父さんお母さんには役立てそうなんだけどな。