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娘と行く福島ラーメン道その1 [娘]

娘の好きな食べ物といえば「チュルチュル(麺類)」と「パン」である。嫁方の実家がこの厳しい情勢下、必死こいて米を作っているというのに、祖父母の心孫知らずといった感じで娘といったら(というか世の子供たちも押しなべてそうなんであろうが)小麦粉万歳といった嗜好なわけである。そんな娘を引き連れて外食するにあたって自然と足が向くのがラーメン屋であり時々パスタ屋であるのだが、今回はそんなわれらが家族の行きつけのラーメン屋を、さしてグルメ風でもなく淡々と紹介していきたい。食べログ人気順に準じて。

ちなみに我々の好みはというと「スープを最後まで飲み干せるようなラーメン」であり、それを簡単にあっさり系と言ってしまっていいのかどうか迷うところなのだが、とにかくスープ一口目から目覚しく美味しいが食べ進めるにつれだんだん濃い味に飽き飽きしてしまうようなラーメン、というのは好みではないというのは確かである。
なお子供連れという条件において評価するに重きを置きたくなるのが、「禁煙度」と「座敷の有無」。子供用椅子等があるか否かや、帰り際にお菓子が供されるかどうか(これはいいことなのか悪いことなのか難しいところだが)などもポイントとしてあるだろうが、ちょっと覚えていたり覚えていなかったりなので、気が向けば後々追加で特記したい。

伊達屋(福島市)完全禁煙、座敷なし
車でアクセスしづらいことや容量の狭さなどは難点としてあるものの、すっきり美味しいスープに細麺はバッチリ好みだし、誰しもがみな口を揃えて言う丁寧な接客もあって、とにかく気持ちのよいお店。最近店の前を通ったら、店外で並んで待つお客さんのためか風除けを施してストーブを用意してあったのにも好感度アップ・・しかし、一般的ニーズに合わせたのか、昔より味がしょっぱめな感じになってからは少し足が遠のいている。薄めで、とお願いすればいいだけなんだろうけど。

正月屋分店支那そばやまき(二本松市)完全禁煙、座敷あり
郡山市にある正月屋さんののれん分け第一号(だったような)。正月屋のラーメンが郡山まで出向かずとも食べられると開店当初大喜びしたのだったが、福島市内に石川屋さんが出来た今でもこちらまで足を伸ばして食べたい。場所が少し分かり辛くなおかつ一方通行帯に囲まれ、ようやく着いても駐車場も停めづらいものがあるが、本店にはしばらく行っていないので比較は出来ぬものの、やはり美味しい。感激と満足とともに「これだよね」と再認しながら毎回お店を後にする。娘もここのラーメン(スープ)が最もがっつく気がする。お店の中もさっぱり綺麗。

本場広島お好み焼かっちゃん(福島市)分煙(となってるけど、そうだったっけ?)、座敷あり、個室あり
大学時代の友人に広島出身のヤツが居たけど、口調もそうだが気性もやや荒めでこんなレッテル貼りは悪いけどまさしく「仁義ない」という感じだったのだが、ここの店主さんはいたって穏やかそうだ。子供さんのお部屋が店内に設けてあり、たまに覗くと中ですやすや眠りこけたりして、思わずニンマリしてしまう。店内も煙がもうもうと立ち込めるという感じではなく白木のテーブルや内装には清潔感がある。ここの一番のグッドポイントは子連れでも安心して来られるように個室がある(予約もできる)ということである。スタッフさんも優しい。ラーメンはプリプリの細ちぢれ麺と細もやしのシャキシャキとした食感がよい。広島風お好み焼きもこの地ではあまり食べる機会に恵まれておらず、ゆえにラーメンともども「ここでこそ」食べられるという感じなので、自然と定期的に足が向く。でも一番は子供連れで入りやすいということであろう。

娘の自己内責任転嫁的言動について [娘]

娘は「さくら(娘の名前)、○○したいんだってぇ」と、まるで自分のなかに自分が二人(以上)いて、その誰かがこう言ってる、こう思ってるんですけど、自分はそれを伝えてるだけなんですけどぉ、的な感じの言動を、よくする。

親に何か無理難題をお願いするような時ばかりでなく、普通の会話の中でもそういった言動がたまに見られるので、単に”言い方”の問題という気もするのだが、でもホントに娘が我が侭などを言うことで自分の身に降りかかってくる責任や負担というものを回避したくってそのような言動に及んでいるんだとしたら、こんな小さいのに随分ませたことが出来るんだなぁとヘンに感心してしまうし、それともそもそもの娘の思考回路の基本設計自体があの、プロ棋士と互角に渡り合うような最新鋭の将棋プログラムのように合議制を敷いているのかなぁ、などというような興味もあったりするわけで、娘とその分身たちがあーだこーだ脳内で議論を繰り広げているような様を想像すると、思わず笑みがこぼれてしまうのであった。

しかし実際、娘からの世界の見え方はどうなっているのだろう?嫁は、乳幼児は夢とも現ともつかない現実と空想とが不可分になった世界に生きている、と言っていたことがあるが、前述のような娘の伝聞形式的言動から自分が想像するに、やはり彼女の体には”中の人”がいる感じなのではないかと思う。その娘の中の人が、娘の肉体という入れ物(乗り物)の中から世界を一歩引いて眺めているような感じ。イメージしうる画づらとしては、例えばそれはおめんを被った人の主観視点みたいなものだろう。両目に当たる穴が開いていてそこから外部が垣間見え、それ以外はお面の裏面で真っ暗という。

外部からの問いかけも直接は聞こえてなくて、伝令役の娘(の分身)が本体たる娘の中の人にそれを伝えたりしているのではないかと。伝令「父がおかたづけしろだってぇ」、中の人「イヤだ」、伝令「(父へ向かって)さくら、おかたづけイヤなんだってぇ」みたいな。そうやって娘の中で日々繰り返される伝言ゲーム、子供特有の聞き間違いや言い間違い、あらぬ誤解がもたらすいくつもの笑いというものは、じつはこの伝言ゲームの中で生み出されているのではないだろうか、今日は、そんな想像を戯れに膨らませてみた。

いい警官、悪い警官の要領で [娘]

嫁によく「なんでそんな娘とケンカしてんの?w」と呆れられる。ケンカというほど白熱したものではないのだが、確かに剣呑な雰囲気のなか両者ジッと睨み合って神経戦を展開するということはままある。妻が日がな娘と暮らすうちに身に付けた、娘の機嫌を損ねぬよううまいこと宥めすかしつつ、双方にとって佳き方向に話を導くという術を、自分はいまだ持たないせいなのだろう。

だがである。娘にとって万事が摩擦なく抵抗いってしまってよいのだろうか。話を大きくすれば一つの教育論やしつけ論に連なる問題である。この手の話題はデリケートで、そして子を持つ親の先輩諸氏たちが有史以来連綿と悩み苦しみ続け、学者先生がその類まれなる頭脳を絞って論文を書いたり本をものしても、一向に絶対正答の出ない問題であるのだから、自分のような新参者が思いつきで語ったり、浅薄な考えで実践していいものではないように思う。だがしかし、である。誰かが厳しいことも言わねばならぬ、時には子にとって壁たれ、自らそういった役割を以って任じなければならないとやっぱり思うのである。

自分がそのように思う背景はこうである。以前に会社の同課同性の同僚と飲んだとき、みなが口を揃えて「嫁は子供のことを庇うばかりで、自分が叱らなきゃならんのだ」などと言っている。愕然とした。みんなの家庭ではお父さんが叱り役のようなのである。当時の我が家を顧みればむしろ逆であった。自分は何も言わず嫁が一手にお小言役を引き受けているような。これではいかんと思ったのである。子育てにおいて自分の立場を確保したいとか、男親としての威厳を獲得したいというような、利己心でそう思ったのではないのではなく、嫁だって言いたくないのに言うしかないのだというような悲壮な気持ちで臨んでいるのだろうから、少しでも自分がその苦労を負担したいという、利他精神に基づいてそのようにするぞと決めたのである。かくして柄にもない厳しい父親役に取り組む日々が始まったのであった。

だが、しょうじきなところそれはあまり首尾よくは行っていないと思う。ときにはガキんちょじみた素の感情が前面に押し出てきてフツーにムッとしてしまうことがあるし、壁というにはあまりに低く、穴開きだらけの隙だらけというのも重々自覚している。でもそれでもやらねばならない、要はバランスの問題で、自分を叱るやつもいれば自分をフォローするやつもいるんだなという状況が娘には在るべきだと思うのである。それが一つの現実社会のあり様であるから。また親サイドとしても娘をあるべき方向に導く為にこういった”いい警官、悪い警官”の要領で一丁やるというのはなかなか有効だと思うのである。片方が強面で臨んで、片方が「まぁまぁ」ととりなす。これでホシを落とす、という。

ただ一つ思うのは、娘が自分から何かお小言的なことを言われたり言われそうな気配を察すると、毎回あのように反抗的態度に出るというのは、人に厳しいことを言われ慣れていないからというよりは、他人に指摘されるようなことは既に自覚し反省さえもしているんだから、それを重ねて指摘してくれるなよ、ということなのではなかろうか?よくある、母親に「勉強やんなさいよ!」と言われたのに対して子供が「分かってるよ、ったくもう!」とか「今やろうと思ってたのに、んなこと言われてやる気なくなった・・」とやり返すみたいな。

自分で自分が悪いことをした、と認識し反省もできているならそれに越したことはないのである。それならば確かに自分のお小言なんてお呼びではないだろう。これまでの立ち振る舞いを思えば確かにうちの娘は空気が読めそうな気配がするし、或いはホントにそうなのでは・・こーいう風に思ってしまうのってやはりある種の親バカ的な盲信なのだろうか。でもその可能性も全く否定できない以上、立ちはだかる壁として威厳ある(風の)男親として振舞うカードを切るのは、真にそれが必要なときだけにして、むやみやたらにそうべきではないような気がしている。

まーとはいえ、自分では切り札として自信満々に出しているつもりでも、娘には「まーた無理しちゃって、演技なんしょ?」とすっかり見透かされてしまって、鼻で笑われるのがオチかもしれないけれど。案外娘が全部分かったうえでそれでもなお付き合ってくれているから、例えなんちゃってであっても今このようにして厳しい父親対娘のケンカ劇が成立しているのかも。例えるなら、ひどい演技の映画を最後まで我慢して観ていってくれる優しい観客みたいなものか。

ゴジラさんだって怪獣なんだもんね [娘]

娘がいたく怖がるので、忌避されるようにしてCDラックの最上段に据え置かれ、絶えず我らが家庭を睥睨しているゴジラの人形を見上げながら、あるとき娘が言ったという言葉。どう解釈すればよいのだろうか、考えてみる。

例えば「○○くんだって男なんだもんね」、もしかしたらこんな感じの台詞の系統なのであろうか。「アタシは清廉な思いで○○くんのこと好きだったけど、○○くんは結局男で、やっぱりそーいうエッチなことしたかったり、しようとするんだね」みたいな意味内容のものとして例示してみたのであるが、この台詞には女性の失望や軽蔑が見て取れるわけであり、これを娘とゴジラとの関係においてまず男の獣性=怪獣の凶暴性と置換しつつも、単純に置き直すのでなく少しストーリーを進展させて考えてみると、娘としてはこう思ってそう言ったのではなかろうか、「あたしはそんなところにぽつねんと置かれてるゴジラさんの孤独に同情したくもなるけれど、でもやっぱりゴジラさんは凶暴な怪獣なんだし、そうされてるのはしょうがないよね」みたいな。つまりは男としての獣性を垣間見せたがゆえに軽蔑されてしまった男に対する、女の一定距離をおいた同情みたいなもの。これでどうか?

或いはこうか。「ゴジラさんだって」の文言に着目するとき、娘をとりまくゴジラ以外の他の怪獣の存在が思い起こされる。嫁が幼い時分から付き合いのある、「こんばんわに」とかいう駄洒落ライクな名を冠された、骨董品級のみどりの怪獣のぬいぐるみである(大小二体ある)。娘には『ざわざわ森のがんこちゃん』と同類とみなされて「がんこちゃん」と呼ばれ慣れ親しまれているこの怪獣たちとゴジラの境遇の違いを、娘は言葉に表したのではないだろうか?つまり「ゴジラさんだってがんこちゃんと同じ怪獣なのに、かたや毎日一緒に愛され遊ばれているというのに、ゴジラさんといったらそんなところに一人ぼっちで、その待遇の違いといったら可哀想よね」みたいな。

どっちに転んでもそこには憐憫というよりはもう少し質のよい同情というものが確かにあるように思える。ただし先に挙げたものは一定の距離を置くような拒絶感を前提としたうえでの同情であり、次に挙げたものはこれまであった距離感を縮めようという仄かな希望が萌芽しているような同情である。このような幼さでもちゃんと他者に同情の念を抱くのだなぁということを、親としてはただひたすらの感激を以って迎えるばかりなのであるが、それとともに娘の中にあるその同情心が、どちらに拠るものなのかも非常に興味深いのである。すなわち拒絶なのか、和解なのか。

娘とゴジラさんの今後の二人の展開がとにかく気になる。もし娘がいずれ「ゴジラさんおろしてあげて」なんて言い出したら・・それは涙ぐむな。一向に縮まらない距離感を第三者的視点からもどかしく見守り続けるのもまた一興だけれども。でも一番ありそうなのは、娘の方にしてみれば興味の尽きない好奇心を喚起する世界というものはいくらでもよそに広がっているわけなので、それに目を奪われ続けて棚の上のゴジラさん(む、このフレーズ、ジブリ映画のタイトルみたいだ)のことなんかさっぱり忘れ去るというもの。うん、ありそう。

湊かなえの『告白』を一気に読む [娘]

当然幼子を持つ親たる自分としては、第一章において娘を殺した犯人に対し告発を行う森口先生の立場になんの抵抗もなくライドオン。章を経て語り手が変わるごとに前章までで語られてきた出来事の異なる側面や真相が明らかになっていきなかなか息詰まるものがあるが、基本その間自分のテンションを支えていたのは他ならぬ森口先生の仕掛けた復讐が成功を見るのかどうかというところのサスペンスであって、浅はかで愚かな犯人たち(子供たち)の類型的な苦悩やペラい心理描写なんか無性に腹が立つばかりで、世の多くの人がたぶんそうであるように、法で裁ききれない少年犯罪というものへの憤懣やるかたなさのはけ口よろしくフィクションの力でもって一矢報いる痛快な復讐譚として一気に読み尽くした。あぁ面白かった、ってそんな単純な自分もまた愚かで浅はかなのか?まぁいいや。

しかし小説の中で示される力学というか力関係というかは決してドラマティックな逆転性があるわけでもなく至極フツーの自然の摂理のようなものであり、つまりそれは強者が弱者を制すということ、大人が子供をやっつけ、子供は更に小さい子供を狙って殺すというだけであり(あるいは男子が女子を殺すとか)、そのことを思い返してみるとまるで動物ドキュメンタリーの中で克明に映し出される食物連鎖における食う-食われるの関係の非情さを見たような思いがしてくるわけで、先ほどまで在ったはずのあの熱狂的かつ野蛮な興奮の伴う読後感をあっという間に冷からしめるものがある。

復讐をやりおおせたことの勝利感が去ったのち、ふと気付けば誰かが勝ったわけではなく誰しもが何かしら悲惨なことになっていて、振り返ればいくつかの死体が累々と横たわっているというこの救いのない物語の終点において自分がハッと思うのは、自分の娘と年齢的に近しいからという理由もあって、犯罪の犠牲となった先生の娘を、その子を手にかけた少年たちや若き殺人者に陶酔する女の子、制裁と称していじめに興ずる中学生たちから聖別しようとしていた自分の浅はかさや愚かさのことであろうか。「ウチの子に限ってあんな歪んだようにはなるまい」なんていう安易な考えは、それこそ息子に過大な期待をかけた挙句に刺し殺されるあのモンスターペアレント風の母親に自分を近づけるような危うさを備えているような気がして、少しゾッとする思いがしたのであった。

子供番組へ向けるややフェティッシュな視線 [娘]

うちで娘に見せるテレビといえばほぼ日本放送協会の教育チャンネルのみということになるが、世の子を持つ父様母様なら当然ご存知のように、子供向け番組も「所詮は子供が観るもの」というように一概に馬鹿にできないところがある。大人の視聴に耐えうるというのか、とにかくとうの昔に深奥に仕舞い込んでしまっていた童心を頑張って奮い起こしたり、子供の目線に降り立って望めるよう無理して窮屈な姿勢をとったりせずとも、フツーの大人の居住まいのまま眺めて素直に感心したり感動したりできるようなものがあるのである。

自分がいつ観ても「これは、いい」と思えるのは『ピタゴラスイッチ』のアルゴリズム体操の隊列行進?バージョンである。音楽とともに一団の行進が始まるとそれにつれて、敷かれているであろうレール上に載せられたカメラがヌルーと並行し始める。これはいい。動き出した瞬間に「あっ・・」とやられるし、その後被写体と等しい距離を保ちながらゆっくりワンカットで継続される移動撮影中も終始ずっと気持ちよい。端的に言って映画的である。これが単なるパンニングなんかで済まされていたら、このようにしてある種の陶酔感を覚えながらは観られないだろう。自分の中での関心はせいぜい「あっそう面白いね」程度の域を出なかったはずである。

子供向け番組を観ていて覚える視覚的快楽という話で続けて挙げるならば、『おかあさんといっしょ』の歌のおねえさんことたくみお姉さんにも触れねばなるまい。歌のPV?かなんかのラストでたくみお姉さんが最後のポーズで制止するさなか、まぶたをパチパチとしているものがいくつかあったと思うのだが、そのぶりっこ(死語)ぶりというか小技を効かせようという賢しさというかが、個人的には少しイラッとくる。だがそれゆえに、いい。なんだか愛おしくなってくる。例え将来、中学生くらいになってよほど色気付いてきたって娘にはこの男心の機微(我ながら失笑)は到底分かるまい。些少の不快が快楽に転ずるということはよくよくあることなのである。

娘の考案した新競技「まっけよーい」についての考察 [娘]

子供のおもしろき勘違いや言い間違いネタなど、どこの家庭にも唸るほど在ることだろうから、今更ブログにそれをぼつぼつとアップし始める(うちの娘はブログを休んでいるうちに生まれ、そして育ち、今や3歳に手が届かんかというところまで既に来てしまっているのだ)というのは遅きに失した感ありまくりなのだが、まぁとりあえずここから始めてみる。

子供と相撲の真似事をとるというのも、どの家庭でもよくある光景であろうが(子供が男児だろうが女児だろうが、まだ幼い時分にはその辺の遊びの嗜好は未分化であると思われる)、だが相撲に喜んで負けに行く子供はどれくらい世の中にいるのであろうか。話はこうである、「まっけよーい」の掛け声で娘との相撲が始まる、しばしまさに児戯に等しいような押し合いをしたのち、娘は自ら後ろに倒れていってこう言うのである、「あー負けちゃったー、さくら(娘の名)のかちー」と。

負けたのに勝った、これはどういうことであろうか。世によく言われる「試合に勝って、勝負に負けた」とか、あの手の言い回しみたいなものなのであろうか。しかし決して不条理な話でもないのである、なんといっても当の本人は最初から「まっけよーい→負けて良し」と、高らかに宣言して試合に臨んでいるのであるから。負けるが勝ち、なんと倒錯したルールの競技であろうか。

おそらく一つ確かなのは、彼女のなかで勝ち負けの定義がよく分かっていないというのは間違いなくあるだろう。だからその二つが相反するものとは思わずに平気で共存していて、「負けたのに勝った」と憚らず言えるわけである。これはこれで良いと思う。人間成長するにつれ、どうしても勝ち負けばっかりを気にするものである。こんな小さい時分のうちくらい、勝った負けたに一喜一憂しない穏やかな日々を少しでも長く過ごしてほしいばかりだ。

しかし娘がこの競技を覚えたであろう相撲のテレビ中継を、彼女はいったいどういう思いで見つめているのであろうか。確かに勝負が決まる瞬間、場内は大いに沸き立ちカメラのフラッシュの花が其処此処で咲き、拍手が巻き起こる。その時点ではこの祝祭的状況がどちらの力士に対してもたらされたものかは子供には分からないかもしれない、だがその後カメラは確かに勝者を勝者らしく、敗者を敗者らしく映し出しているように、少なくとも大人である自分はそのように思えるのである。そんなことは意に介さず、娘が熱い憧憬を湛えたまなざしで土俵下に転がった敗者の姿を「負けて勝った者」として、見つめている姿を想像すると、可笑しくなってくるとともに、そこには確かに素朴な愛があるような気もしてきて、あたたかい心地になってくるのであった。

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