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娘の味覚の純潔さを守っていきたい [娘]

最近いたく感動したことがある。我らの結婚(式)記念日であった先日の夜、乾杯用にとオトナにはお酒、娘にはいちご味の豆乳飲料をそれぞれ買ってきたのであるが、娘は確かにそれを「おいしいおいしい」と言って飲んでいたものの、「これ、何の味がする?」といくら聞いても「桃の味」と言ったりなんかしたりして、ついぞいちご味だとは認識ができなかったのである。

我々のような、あらゆるイカサマな味に慣れきってしまった大人にとってそれは、本物のいちごの味とは全く違っていてもそれでもなお、鬱陶しいくらいこれはいちご味以外の何物でもない(すごい香料!)、それが至極当然の認識なのであるが、娘にとってそれは本物のいちごの味には全く似ていない、ゆえにこれはいちご味ではない、というわけのようなのである。

よくよく考えてみれば娘のその(あるかもしれない)論法というものは、当たり前といえば当たり前のことであるし、正しすぎるくらい正しいことだとも言えるわけで、とくだん驚くにあたらないのかもしれないけれども、「本物のいちごの味もいちごの味ならば、いちご風味菓子の味もまた一方でいちごの味である」というこのダブルスタンダードを是としつつ長い間生きてきてしまった、自分のようなスレた人間にとって、その夜娘が見せた味覚に対する正当な判断は、目からウロコが落ちるような思いがするものであったし、何にも汚されていない純真を発見したような、感激をもたらすものであったのだった。

今の娘の舌にかかれば、バナナ味やメロン味といった、あの手の「実物の味とは全く別種の風味」のものも、まったく何の味だか認識できないんではないのだろうかと推測されるのだが、それはかえって良いことなのだろうと思う。あれらをメロンだバナナの味だとあっさり認識できたうえに、「全然味が違うじゃん」とも不服を訴えることなく受け入れてしまうような状態というものは果たして幸福なのだろうか?という気がするし、「味が違うから」といってその手のイカサマ味のものを断固として拒否するまでしなくとも、「何の味だか分からないがとにかく美味しい」、そんな程度の適当な認識で臨んだ方が、その風味についてやや幻想を持ちながら楽しむことが出来るのでかえって良いのではないかと思うのである。

たぶん我々もこれまでの人生において、そういったイカサマ味に初めて遭遇したときには、「これ全然いちご味じゃないじゃん」と思ったに違いないのである。だけどだからといってその手から捨て去ることはできなかった。なぜなら「甘いから」、或いは「美味しいから」。そうやって砂糖の(文字通り)甘い誘惑に屈しながら、「二つのいちご味」を許容し看過できる認識というものを形成していったのであろう。

できるならば娘にはそうはなってほしくはない。「偽者いりません!」というような徹底したナチュラリストにまでなってしまったらかえって不幸かもしれないものの、とにかく味覚において(他においてもそうだが)真贋を見極め正しい評価をし、筋が通った態度のとれるような人間になっていってほしいのである。そうしてそのうえで嘘は嘘なりに楽しめるような余裕ある姿勢でもって叫べるようになればいいのである。「イカサマ味、最高!」と。味覚については札付きの不良である父と、いつか一緒にそう叫ぼうぜ、娘よ。
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