SSブログ

近況報告ぅ [私]

避難(移住)先の住居=借り上げ住宅があとは本決めするだけの段階となっております。3LDKのメゾネット、エアコン2台駐車場2台という規模は自分史上最大です・・子どももいるし広けりゃ広いだけ良いというのは確かなんですが、問題は金銭的支援打ち切られたその後ですねw今回とりあえず落ち着く場所として決めた大仙市(大曲)は、福島市なんかと比べるとかなり家賃水準が安いので、このサイズでこの金額なら(だいぶお徳)・・という思いもあるものの、これまで住んでたところと比べればサイズアップに比例してプライスアップも確実にしているわけなので、お父さん、マヂでこれから頑張らないとwめっちゃ余裕があるわけではないけれど、落ち着いたら福島の知り合いの一時保養の際の拠点として開放できればいいなぁなどと夫婦で考えております!

次、再就職活動についてですが・・今月でオレ34歳、放射能ないかわりに、仕事なし・・10年ぶりぐらいに履歴書とか書きまくってるわけなのですが、これってかなーりしんどいwとくに自己PRとかもう、どのような文言を繰り出せばよいのか、途方に暮れてしまいます。中には学生時代の部活と主だった活躍とかを書かされる様式のところもあってw、(今もそうだけど)かつての自分の”何者でもなさ”をガッツリ思い知らされます・・ただ伊達に年をとっていないので、無理矢理言葉を見繕わなくても結構それなりに「自分について」のワードが自然に出てくるわけでして、そうした年経ることによって醸し出されてくる”味わい”のみを頼みにして、必死に筆を走らせているところなわけですw

車もなぁ・・あの年間1ミリマシンめ!、こちら(福島)じゃ”鉄の盾”として機能するけれど、あちら(秋田)じゃ百害あって一利なしなので、どうしてくれようかとかなり疎ましくなりつつあるわけですが、先立つものもあまり無く(汗、まーもう少し老体に鞭打って使うほかないのかなぁと。それから家電六点セット!どこで申し込もうがやはり調達までに数週間を要するようで、ワタシの避難生活は文字通りゼロからのスタートとなりそうなのです(冷蔵庫だけはピンピンしてるから福島から持っていく)。自分持ってるテレビは被災三県でしか使えないブラウン管&アナログ仕様だし、他の家電もひたすら古いものばかりだから、これをきっかけに関係を絶つというのも致し方ないのかもしれません。

でも何も無いところから始めて、どうしても必要なものだけを新しい家に取り込んでいって、そうやって生活を再構成していくというのも結構悪くない気はしています。あれだけ地震に揺さぶられ、たんまり被曝させられ、人類史上かつてない災害に見舞われて、それで価値観が揺るがないという人はそうそういないでしょうし、少なくとも自分なんかは決定的に態度を変えて生きていかねばならないという強い決意が芽生えてしまっているわけで、それは”持たざる生活、ひたすら身軽に生きる”ということなのですが、ひとまずはそれが実現できるか否か見極めるためにも決した意に従ってとりあえずは突き進んでみようかなぁと。

はぁ、それにしても早く家族三人で暮らしたい。その思いばかりが強くなっています。まー一ヶ月もしたらたぶん、「一人で羽のばしてぇー!!(例え放射能にまみれた福島であってでもいいから)」みたいになるんだろうなぁww

『24-Twenty Four-』ファイナルシーズンの最終盤ワロタ [私]

行きつけのレンタルビデオ店で、新作から7泊8日に降りてくるまで一時中断していた『24-Twenty Four-』ファイナルシーズンの鑑賞を最近再開、懐かしくもないし胸が空くわけでもないが、僕らのジャック・バウアーが帰ってきた。そう、テロを阻止するためならばあらゆる犠牲を惜しまず手段を選ばない、時として観客をドン引きさせるほどの過酷さと冷徹さを以て任務にあたる、あのジャック・バウアーが。

思えばレイトシーズンにおけるバウアー氏といえば、もはやそうしたヒーロー?像を求めていないという時代の要請からなのか、それまでの自分の横暴ぶりを自戒しつつ実際ひどく罰せられたりもし、新参サイドキャラクターからは疎まれたり白い目で見られ、頼れる盟友たちはどんどん先に鬼籍に入ってゆき、CTUからは退いて、不本意ながらもやむなくテロ解決に手を貸すことになるという形で(当初と比べれば)ずいぶん大人しく画面に収まっていたものだで、シーズンを重ねるたびにより一層肩身が狭くなり元気を無くしてゆく主人公の描きようというのも、シーズン変わって全てがチャラになったように悪びれたそぶりもなく大はしゃぎされるよりかは遥かに気が利いているとは思うものの、「やっぱり何か物足りないよね」という感慨も深まってゆくことは内心否めなかったのである。

だがこのシーズンⅧの終盤にかけては、これまでの不足感を補って余りあるほどバウアー氏が徹底した行動を開始する。それはある決定的イベントをきっかけとしており、ゆえにテロの阻止や大義のためというよりかは、ほとんど個人的な復讐心に基づくものと思われれて、はっきりいってその強さは往時を凌ぎピークに達しているといえるほどである。シビアな拷問を延々強いるとか、銃火器で派手にぶっ放すとかそんなレベルではなくって、なにせシーンが切り替わったら復讐が既に完遂されているのである。映画的に言えば"瞬殺"・・HowもWhenも描写されずただただ「死」という結果だけが描かれる、これは映画内においては無敵の所業といえるわけで、そんなバウアー氏には幾重もの警備網をかいくぐっての大統領暗殺すら容易に成し遂げられるだろう気がしつつ、最終話を迎える。

だがまさしく作中において「オレが法」となり誰も届かない境地に達しようとしているバウアー氏を最後にギリギリ「人の領域」に引き止めたのはオブライエン女史であった。シーズン途中に現れるもサイドキャラクターの中でとうとう殉職を免れ切った数少ない存在であり、フェイドアウトして出てこなくなった(例えばアーロンはよくマイケル・ベイの映画に出張しているのを見かけるw)ならともかく継続出演しながらそれをやってのけた彼女もまた『24』史上空前絶後の大人物であるわけで、だからこそ最後のお別れをするのが家族でも恋人でもなくクロエであってもごく自然どころかそうでなければならなかったとさえ思えるのであり、クロエのくしゃくしゃの泣き顔を目にすれば自分も当然もらい泣きせざるを得なかったのであった。

いやそれにしても最後だからとことんやっちまえwみたいなノリを感じましたね。面白かった。

Underworld Live at SONICMANIA2011!!!(おまけに恐竜博もw) [私]

去る8月12日、千葉も東京も放射能汚染地域にゃ変わりないけれど、わたしゃつかの間そのこと忘れて遊んで参りましたよ。
最近海外でどんなセットリストでライブして回ってたかもノーチェックで臨んだので、一発目『Downpipe』じゃなくって面食らいましたよ(聞きたかったなぁ)。でも『Push Upstairs』なんてワタクシライブでは初めてかかなーり久しぶりに聞いたかも。影絵シーケンスも良かったwカール氏本人が一番楽しんでそうでニヤニヤしながら眺めてしまったw周りのお客さんはイントロ聞いても「?(なんの曲)」という感じが大勢を占めていたので、コアファンばかりではなかったようなのですが、ゆえにこそ定番曲に飽き飽きもしていずガッツリノっておりましたので、雰囲気としてはわるかなかったのではないでしょうか。それにしても『Always Loved a Film』はええのう・・『Jumbo』を近年聞けてないのだけがそろそろ不満。

会場の雰囲気については以下のちょっぴり動く写真(キャシオの名器Exilimさまによるスーパースロームービー)でご堪能(はできないけれども)ください。※音出ませんので悪しからず!!

Boom Boom Satellites

Primal Scream present Screamadelica Live

Underworld(何歌ってた時だか忘れたw)


さてその日の昼間自分が何をしていたかというと、上野をフラフラしていたらたまたまやっていた(知らなかった)『恐竜博2011』@国立科学博物館に巡り会って、思わず子どもらに混じって長蛇の列に並んでしまいましたw(東京国立博物館の『空海と密教美術展』は展示物に立体が少ないようなので手控えてみた)ティラノサウルスとトリケラトプス、恐竜界二大スターの競演・・でもどちらもそこまでゾッコン好きではなく、どの恐竜が、つーよりはひたすら骨格とそれが落とす影とが織り成す描線の妙に引き込まれてジックリ眺めておりました(照明の配置がんめぇからなんだろうなぁ)。あぁでもアロサウルスはヨカタ(^_^)

CIMG1308.jpg

CIMG1322.jpg

CIMG1330.jpg

CIMG1337.jpg

漫画『アイアムアヒーロー』を読んでゾンビ熱再燃 [私]

個人的にはホントひっさっしぶりに漫画ってものを読んだのだけれど、このお盆休み期間中、表題作を単行本で6巻まで一気に引き込まれて読破したわけなのですよ。

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)

  • 作者: 花沢 健吾
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2009/08/28
  • メディア: コミック







(以下ストーリーに触れておりますので注意!)
それだとは思わなくて手にとったのですが、ゾンビものとして面白いのか、ゾンビものだから面白いのかそこまで自己分析できてませんが、とにかく面白いと思いました。既にして世界はゾンビで溢れかえってました、ってところからのスタートではなく、日常世界に異変が徐々に立ち現れてくるところから描かれていて、この危機がはるか彼方の後景というか周辺事象であるところから、ゾンビ化した(作品世界に則って言えばZQN化かなw)親しき人との対峙という究極的な形でいきなりハードかつシビアに、主人公の身辺に雪崩を打って降りかかってくるあたりの緩急のつけように、ググッと心を掴まれます。

自分が読んだ限りでは終盤、このジャンルでは定番といっていいのかどうか分かりませんが、生き残った人間たちの砦となるショッピングモール(御殿場のアウトレット)に主人公たちが到達しており、今後の展開がいやがおうにも気になります(まー基本はゾンビのせいではなく人間同士の衝突や闘争が、束の間の安寧や均衡をぶち壊しにするんだろうけどw)一見フツーのようでいて世界が一変してしまったというような微妙な場面描写も秀逸で、灯りの落ちたコンビニで自然光が差し込み深い影を落とすなか一人立ち読みする一枚画とか、かなーりグッと来た次第です(今回の震災においても閉鎖されたコンビニや機能していない信号など、印象的な光景でしたもの)。


荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

  • 作者: 荒木 飛呂彦
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2011/06/17
  • メディア: 新書
ときに話題にする本が変わるのですが、ちょっと前に漫画『ジョジョ』シリーズで名の知られる荒木飛呂彦氏の私的ホラー映画評を集めた『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』という新書を読んだのですが、その中でこれが当該作品に対する評価の一般定説であるかどうかは知らないのですけれども、「ロメロの『ゾンビ』はゆる系癒し系のゾンビ映画である」との氏の意見には自分もまさしく!と思いました。ゾンビというやつは噛まれると伝染するとか、頭部を破壊しないと活動を停止させられないとか、いろいろ厄介なところはあるものの、一方で動作は緩慢だし(今のゾンビは全力疾走してくるヤツもいるけどw)そこまで狡知に長けているわけでもないので、案外与し易い相手であるわけなのであり、実際同作においては人間たちが余裕綽々かつ嬉々としてゾンビを射的にしている場面などが差し挟まれています(これは観ていてゾッとする)。

それに加えてショッピングモールにおける物質的充足・・食べ物もあるし銃火器も存分にある、外にさえ出なければ極めて安全・・にまつわる至福感というものに対しても荒木氏は偏愛を見せますが、確かにこれまた自分も激しく同意!という感じでして、こうした諸々の要素から、このロメロ『ゾンビ』というやつは全編を緊張と恐怖とが横溢するでなく、ゾンビの伝染性やカニバリズムへの忌避感を一定程度湛えつつも、基本安楽で退屈な時間がのんびり流れる(これが荒木氏の言う「ゆるさ」だと思いますが)なか、ふと「彼ら(ゾンビ)って何?つか俺ら(人間)って何?」という根源的な問いが立ち上ってきてこれと向き合うことになるという味わい深い作品足りえていると感じるわけなのでした。

しかし何故に自分がかようにゾンビものにこだわりを見せるかというとですね・・小学校の時に観た『バタリアン』、これ一発が完全トラウマになってて(苦笑)、毎年何度となく「ゾンビに包囲されて篭城する」というシチュエーションの悪夢を繰り返し見ているくらい、精神的に囚われっきりになっているからなのです(ゆえにもしゾンビが世界に溢れたらいかに行動するか?ということはかなり周到に頭に思い描けている、未曾有の地震と放射能のダブルパンチには何の準備もしていなかったがw)。ところが思い返してみると、最近はその夢すっかり見なくなったなぁというわけで、いつから見てないんだろうと更に考え直してみると、少なくとも今のように放射能禍に見舞われてからは当然見てないしw、たぶん娘が生まれてからも見てないと思われるわけです。まーつまりは実生活こそ最恐っていうことなんですよねw

フェスブからの転載(ネタ切れではないじょ) [私]

へぇフェイスブックってこーいう風に使うんだぁということがようやく分かりつつある今日この頃。だからノート機能を用いた空しい一人語りはチラ裏・・もといマイブログwにでも篭って書いてろ、という気が自身ヒシヒシと感じてまいりましたので、自ら進んで空気読み、残すやつだけこちらに移してあとは削除することにしました。ちっと前に書いていたやつなので時間的錯誤があることはご了承ください。


2011/6/14投稿

逃げられぬ人の心の移ろいを目の当たりにすると

一気に重圧感を覚えだした。
 
ブログで「逃げた方が賢明」と叫びつつ、
自分だけ着々とその身支度を整えている分には何とも思わなかったが、
いざ自分が呼びかけていた対象である生身の人々の在り様を知ってしまうと、
口で言うだけなら簡単だよね、ということをまざまざと思い知らされる。
 
「自分は逃げる」と決然とした態度を表明し実行に移すこと自体が、
周囲に何をか決断を促す強力な材料足り得ると、今でも思っているが、
「逃げた先でどうなるの?」という答えには、自分自身のことも分からないから、
当然他人の行く末なんて分かるはずも無い。
 
それでも無責任に「逃げよ」と叫ぶべきなのかどうか、
「それはあくまで個人の意見なのだから責任なんて感じる必要なく好きに言ってよい」
とも思うのだけれど、やはり今更ながらにしていろいろ葛藤を感じつつある。
 
福島第一原発から北西55kmの、避難指示基準にのるかそるか、線上において危なっかしく揺れている、
そのエリアからの、空しい一人語り。


2011/6/17投稿

オーヴァー・ザ・レインボウ

娘がジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使』に嵌まっているらしい。
小さい子供が2時間近い映画の長尺に耐えられるとは思わないのだが(自分もそうだったし)、
最後までちゃんと観通すとのことだ。(というのも原発事故により妻子は遠く秋田へ逃げているから伝聞形)
子供が気に入ったものを何回も観続けるのはデフォルト。
 
『アリス・イン・ワンダーランド』のポスターには恐れをなしていたクセして、
ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』にもド嵌まりするという、
いよいよ我が娘らしい映画への嗜好を発揮してきたことには親としては嬉しいばかりなのだが、
私が大人になってから目にした『オズ・・』は極彩色のかなりおどろおどろしい映画という印象だった。
 
ファンタジーがあり、恐怖もあり、そして何より歌があるからこそ、娘はこの映画にいたく心惹かれるのだろう。
竜巻に巻き込まれ魔法の国に迷い込み、旅の果てにカンザスに戻りつくドロシーが最後に言うのは、
「やっぱりおうちがいちばん」
娘がこの感慨に共感を覚えているかは分からないが、まだ竜巻に巻き込まれたまんまの自分には、
まさしく至言だと思えることなのだし、「お家に勝るものなし」というメッセージを残して終わるこの映画を、
繰り返し見続けている娘の姿を思い浮かべると、とても切ない気持ちになってくるのである。
 
そう、やっぱりおうちがいちばん、だな。


いつの間にやらこのブログも [私]

私のファーストブログの通算閲覧者数を突破しておりました(大したアクセス数ではないから到達し易き山ではあったのですがw)。原発事故という時流に上手く乗っかっているからとはいえ、ペースが全然違うなぁ。

Fireworks Pictures Fukushima Branch

英国のアーティストUnderworldの前々作が発売されたことを喜ぶエントリーで4年前の10月で更新の停まっているこのブログ、2005年のゲロ展(てゆう大学サークルOBの有志展w)への作品制作日誌から始まって、フラガールへのエキストラ出演の話などで盛り上がりつつ(なつかすぃー!)、妻との結婚(てヘンな言い方だな)というビッグイベントを経ながら、妻が妊娠してつわりに喘いでいる頃には「もはやこれどこじゃねーや」と自然終了と相成ったわけなのですが、福島市の片隅で平々凡々と暮らす自分らの様子がそこには溢れんばかりに描かれていて、今となっては読み返すと涙が滲むばかりです(最後の方でPRIDEという格闘技イベントの終焉について触れてるのもかなり物悲しいものが)。

ちなみにこのエントリーは自動投稿でして、実際は8月11日夕刻時点で書いているものですwそして自分の身に何もなければ翌12日の夜には、前出のUnderworldのライブアクト@Sonicmaniaを前に、たいそう浮かれポンチになっていたことでしょう。自分もこうしたイベントに行くにはだいぶ年をとり過ぎてきた感がありますが、アンダワの二人もそれこそいい年です。あと何回日本で拝めるか分からないので、妻に我が侭を許してもらって幕張メッセで盆踊りならぬボンスリ踊りにまた興じることが出来ていただろうわけです(Born Slippyという彼らの代表曲のことですね、ボンスリ)。妻よありがとう。このエントリーが投稿されている頃には前夜の疲れでヘロヘロになっているに違いありませんw

昨晩の娘との別れは切なかった [私]

秋田に避難している妻子のところから福島へ戻る際、これまでは娘が寝付いてから深夜にひっそりと旅立つということで”別れ際に勃発する小メロドラマ”を徹底的に回避せしめてきたのだが、ここ最近夜中に帰ってくるのも大変だったり翌日の予定などもあって娘が起きているうちにバイバイすることが立て続いているのであるが、これが辛い。とくに昨日は辛かった。

避難して二重生活が始まって以降、「平時だって単身赴任や出張族のお父さんはこんなもんなんだ」と自他に対して言い聞かせてきたし、「まだ避難できてない子どももいっぱい(福島に)いる」ことや「一生ふるさとに帰れないかもしれな人たちや津波で永遠の別離を余儀なくされた人だっている」ということを思うときに生起する「相対的に自分はよっぽど恵まれている」という感覚で以て何とか精神的フォローとしてきたところなのであるが、こうした悲しい実状を目にすると改めて思い知らされる、やっぱりウチにだって悲劇はある、と。

娘にとっては「ウチはましな方」とか相対的価値評価なんてまったく思考の外だし、とにか「何で家族で一緒にいられないのか?」、この一点をただひたすら悲しんで胸に迫ってくるものだから、あまりにそれは正論過ぎて自分は何の言い訳や方便も考えられず、貰い涙するしかなくなる。この週末は小国の実家の母親と妹も一緒に連れていったから、じつに彼女らと娘とは5ヶ月ぶりくらいの再会になるわけなのだけど、「何でみんな一緒にいられないのか?!」と娘は余計に強く思ったことだろう。娘にとっては奴隷・・もとい遊び友達はいくらでも身近に侍らしておきたいのは間違いないことなのだから。

最近はフェイスブックのビデオチャット機能で顔を合わせるという苦肉の策に打って出ていたものの、何故だか先週くらいから調子が悪くなってそれも叶わなくなり、昨晩の別れしなに娘から「(パソコンに)映ってよ!」と泣かれたのもまた切なかった。の娘、Facebookの「F」の字アイコンが父と繋がる入り口たり得ることを、既に覚えているのである・・あぁWin-Macが悪いのか、秋田側の無線LANルータが悪いのか、福島側でLionにOSアップグレードしたのが悪いのか・・誰か教えて(泣)

とにかく昨日、号泣してより一層の熱を帯び汗をかき、じっとりとした娘の体を抱きながら、「この子は全身で泣いているようだな」などとぼんやり思いつつも、その想いの強さと純粋さをしっかと身をもって受け止め、自分が真にやるべきことケアすべきことを痛感させられたわけでありました。自分だってもう5ヶ月も娘の一番可愛い盛りを見逃し続けているのであり、それは精神的損害月額10万円なんてものでは到底賠償しきれない貴重な時間を逸失させられているのである!小さいことだと言われても今の自分にとってはやっぱり重大問題だ、殆どこのことのためだけに仕事辞めて秋田に行くようなもんだし、こちらでの仕事が公私ともに落ち着きつつある中で、少しづつではありますが、もともと利己的であった自分というものの素直な欲望が鎌首をもたげてきたような気がいたします。

断片的な光景のあまりの異様さに驚いた [私]

原発ネタではない話です。

今日の昼休み中、伊達市梁川町にある役場の支所まで足を伸ばした。勤め先のある保原町から県道122号線を進んでゆくと、新田のあたりにローソンとエネオスが差し向かいに建つ交差点があるのだが、そこの信号で停車して、何気なく右手のエネオスを向いたらば、ガソリンスタンドの脇に黒い軽自動車が明らかに事故ったという感じで反転倒立していた。

不謹慎なので写真までは撮らなかったのだが、例えるなら金転がしの100歩進める駒の立ち方みたいな。或いはいわきに被災地支援入りして時の英雄となった江頭2:50の、かの有名な倒立ポーズ。搭乗者と思しき人影は周辺には無く、ガソリンスタンドの店員も車がまるで目に入らぬかのようにしてスタンド周りでフツーに立ち話に興じている。左を向けばコンビニエンスストアにも異常を察知した雰囲気は微塵も無く、ご近所から野次馬が集まる気配も無い。ただただ長閑な時間だけが流れている。

この光景を異常なものとして凝視している(気付いている)のは私と他には自分の前を走って(停まって)いたトラックだけのような感じで、信号が青になった後もしばし二台とも動けずにいたのであるが、後続車両が来たので不承不承車を進め出すも、「いったいあれは何だったのだろうか」とひたすら不思議でしょうがなかった。

ガソリンスタンドが店の前などにペンキを塗ったタイヤなどをディスプレイしたりすることはままあるものだから、ガソスタのあの店員の落ち着きようからいって、恐らくあれはスタンドが目を惹く広告目的でわざと置いたオブジェかなにかなのではないか?という見解で決着しようと思ったのだが、役場の帰りに同じ道を引き返してきたら、救急車にパトカーに消防車が集結し、野次馬もガヤガヤと集まってきていてさっきとは打って変わって騒然とした雰囲気となっていた。

要するに自分が最初に目にした光景というのは、事故発生直後の事態がひとまず済んで、搭乗者が安全圏に退避し無事を確認し、警察や救急車を呼んで待っている一瞬の空白状態だったのだろうと思う。だからスタンドの店員もいたって平常に見えたのだし、サイレンを聞いてからようやく集まってきた人だかりというものもいまだ出来てはいなかったのだ。そこをちょうどたまたま通りがかり、「え?ちょ・・凄いことなってるんだけど。みんな、あれ見えてないの?」という絶句するような断片的光景を目にしたのが、前のトラックであり自分であったのだ。

とりあえず真なる事故であったことだけは分かったものの、かといってそれで何が解決したというわけでもなく、どうしてあのような細い道であのような横転(反転)状態にまで至ったのだろう?とか搭乗者は無事だったのだろう?とか疑問は結局尽きることなく、恐らく自分は明日の朝刊をくまなく探してみることになるのだろう、というお話でした。おしまい。

『渚にて』を数年ぶりに再読する [私]


渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

  • 作者: ネヴィル・シュート
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2009/04/28
  • メディア: 文庫



読みたくって新訳版文庫を買い直ししてしまったw

私はSFファンというわけでもなく、そもそも小説のたぐいも人よりバカスカ読んでいるというほど読んでおらないものですから、自分が今置かれている福島第一原発事故による放射能禍というこの状況から真っ先に我が乏しき小説的記憶を辿って思い出したのが、この小説であったというだけなのですが、以前に読んだ時よりかは遥かに迫真的なものとして受け止めざるを得ないものがあったのでした。

物語は核爆弾による報復攻撃の連鎖が、北半球を全滅させて終結した第三次世界大戦後のオーストラリアを舞台としております。致死級濃度の放射性降下物が徐々に南半球を覆い進めてゆく中、人々は遠からず誰しもに等しく訪れる死のその時まで、穏やかに日々を過ごしてゆきます。そこでは人の運命を決定付ける大きな戦争も既に終わった後のことなのでおぼろげな伝聞として語られるのみであり、いわゆるドンパチ的な活劇性は皆無ですし、「人類は生き残れるか否か」というような手に汗握るサスペンスもありません。ましてやこうしたディザスターものに付きものの、恐慌・暴動といった猥雑な一面もこの小説では殆ど表れてくることがありません。

既に亡いであろう本国の家族の元に帰ることを一心に思い続ける者、趣味のカーレースに没頭する者、来年には見ることの叶わない庭の将来設計に思いを馳せる者・・それら、非日常的事態を前にしてむしろ強度をいや増して立ち表れてくる日常生活の一面に各々興じる人々の姿には、原発事故以降Twitterを始めた自分のTL上でどなたかが言っていた、並々ならぬ「日常生活継続欲求」というものが垣間見えるような思いがするのです。

勿論今の福島(他)の人々の置かれている状況と、この小説の登場人物の置かれているそれとでは決定的な差があります。小説ではもはや世界に逃げる場所はありませんし、到来する放射性物質は致死レベルです(でもコバルト爆弾由来なので、半減期はおよそ5年だというw)。だからみんなが観念して事態を甘んじて受け入れることに異議の声を上げたり抵抗を試みようとしたりはしないわけです。一方現実のここにはいくらでも逃げる先がありますし、放射性物質濃度もお上が言うところの「ただちに」影響がないレベルwではあります。

それでも被害者としての心境は非常に相通じるものがあるとも思うのです。「(オーストラリアは原爆の一つも撃っていないのに、)何でこんな目に会わなくてはならないのか」、そんな言葉をこの三ヶ月の自分の言動履歴において探せば、いくらでも似たような言葉と思いとがゴロゴロと転がっていることに容易に行き当たります。「自分だけは大丈夫だと思っていたのに」、これも(大量被曝による急性障害発症を受けての)登場人物の言葉です。自分含めみんなにこうした予断があるのかどうかは確たることは言えないのですが、逆説的に言えば「絶対ダメ」ではないから今もこうしてここにいられるのだ、というのは間違いないと思います。

最後に、そんな余裕かました自分の胸に深く突き刺さる、この小説の冒頭に掲げられたT・S・エリオットの詩を引用させていただきます。終わりは静かにやって来る、ガンガンと銅鑼を鳴らし地を震わせ、みなを脅し付けながらやって来てくれるのであれば、逃げ出し始めるのも訳ないわけなのですが、日常をじんわりと蝕みつつやってくるそれほど厄介なものはないという気がいたしますし、(食品等による)内部被曝となるとどこへ逃げようともしつこくそれは追いかけてくるわけで、絶えず緊張感を保つためにもこの一文のことはゆめゆめ忘れないようにしたいと思う次第です。

われらこの終なる集いの地にて
ものも言わず手探り彷徨い
この岸辺にたどりつきけり
この広き流れの渚に・・・

この流れこそ世の涯てへと
この流れこそ世の涯てへと
この流れこそ世の涯てへと
瀑音轟かずただ霧しぶくのみ

ヒルノダムールは名馬への道を上り始めるのか [私]

今年の春の天皇賞はヒルノダムールが優勝した。同馬は前走産経大阪杯(阪神2,000m)を勝ってきての臨戦で、この戦歴というのはかなりの名馬の証なのではないかと思っている。

春の天皇賞へのステップレースとしては他に阪神大賞典(阪神3,000m)や日経賞(中山2,500m)などがあるが、それぞれのレースと本番との距離差を計れば分かると思うのだが、産経大阪杯を使った組というのはじつに1,200mの延長臨戦をこなさねばならないことになる。ハイレベルの中距離戦から最長距離G1という過酷なギャップにめげることなく、前哨戦のみならず本番で好走を果たすということが、大レースをいくらも勝つであろう能力の可能性を表しているだろうと思うわけだ。

前例としては90年スーパークリーク、07年メイショウサムソンがおり、G1勝ち数は前者が3つ、後者が4つで両馬とも天皇賞春秋制覇の快挙を成し遂げている。この話はヒルノダムールが天皇賞を勝ってから「強い」だの言い出すような後出し論などではなく、同馬が今後、前例馬たちぐらいの活躍をするのではないか、すなわちこれからのG1戦線でまだまだ買って儲ける投資的余地があるのではないか?ということを言っているのである。

その二頭の例示だけでは頼りないから類似例を。産経大阪杯を勝って、天皇賞・春においては勝ち切るまでには至らなかったもののハードな臨戦過程を乗り越えて馬券になった馬たち。
93年メジロマックイーン(本番2着)→G1を4勝
97年マーベラスサンデー(本番3着)→G1を1勝
09年ドリームジャーニー(本番3着)→G1を2勝(現時点で)

それから産経大阪杯は破れたものの、天皇賞・春では超絶延長も何のその、一転巻き返して優勝した馬たち。
01年テイエムオペラオー(前哨戦4着)→G1を7勝
03年ヒシミラクル(前哨戦7着)→G1を3勝

どうでしょうか。これで行くとヒルノダムールはオペ様のグランドスラムや中央G1最多勝タイという偉業にまで及ぶかはともかくとしても、天皇賞春秋制覇は確定で、他にもう一つや二つG1を穫って当然という気がしてくるしw、あまつさえ同ステップで3着→2着の戦績を示現せしめた前年のダービー馬エイシンフラッシュもまた、今後もマベサンくらいの健闘を見せていって、やもすれば二つ目のタイトルを勝ち取るのではなかろうかという気がしてくるのである(今年のエイシンに似た戦歴を残した馬といえば08年のメイショウサムソンで大阪杯6着→春天2着)。

ちなみに目前の投機価値のある情報として言うならば、上に挙げた馬たちが次走宝塚記念に行ったときの戦績がまた高打率過ぎて震えてくる。
93年メジロマックイーン:大阪杯1着→春天2着→宝塚1着
97年マーベラスサンデー:大阪杯1着→春天3着→宝塚1着
01年テイエムオペラオー:大阪杯4着→春天1着→宝塚2着
03年ヒシミラクル:大阪杯7着→春天1着→宝塚1着
07年メイショウサムソン:大阪杯1着→春天1着→宝塚2着
08年メイショウサムソン:大阪杯6着→春天2着→宝塚2着
09年ドリームジャーニー:大阪杯1着→春天3着→宝塚1着
※90年スーパークリークは宝塚記念へと連戦しなかった

以上のことからもしヒルノ、エイシンの両馬が宝塚記念を狙ってくるようであれば、人気だろうがなんだろうが買わずにおれない感じなわけなのである(とりわけヒルノ)。この二頭が凱旋門賞を目指していることは聞いているが、宝塚に出るか否かということは知らないでこのことを書いている。断じて「どうせ出ないんだから買い煽りしてもいいだろう」というような、無責任なつもりではない。少なくとも、自分はこれらの馬が出てくるなら買う。強めに買う。そしてガイガーカウンターを買う。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。