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拝啓 愛チカラさま [私]

※これはフィクションでよくあるいわゆる”届かなかった(読まれなかった)手紙”的なものとしてお読みくださいwそしてこのような迂遠な形で愛情表現できないこと、関係各位にはご容赦いただけますようお願いするばかりです。

 先日は小国の子を持つ親御さんたちへの個別ヒアリングということで、遠路はるばる福島までお越し頂きありがとうございました。自分もたまたまそのとき小国に戻っていたことから、自分の手を既に離れ皆様の厚意と熱意によって堂々と築かれようとしている愛知と福島とのその絆の確かさを、図らずも垣間見せていただくことができ大変嬉しく思いましたし、小国のお父さんお母さんの抱える複雑な思いに相対したことにより、秋田へ避難したことに伴って徐々に薄れつつあった、当事者感というものを再度呼び覚まされた感もあり、今は胸のざわめきを宥めすかしつつ、「ここの子供たちのために何をかせんといかん」というモチベーションを静かに高めているところです。
 ときにわたくしごとですが先月のリターンズの際にはわたくし完全にヘソを曲げており、まったく受け入れに際してのお手伝いをしようという気がなかったこと、今更ながらここにお詫び申し上げたく思います。それは安全かそうでないかという直接的なことを問題にしたものではなく、放射能汚染地に生きる我々みずから、無用の被曝者を増やすことや汚染の拡大・拡散についてはケッペキな姿勢を示すべきである、というスタンスを問題にしたものであり、確かに自分も内心「基本屋内活動だし一泊くらいどうってことないじゃないか」などと思いたくなってしまうわけなのですが、「子供にとって安全かどうかは分からないが、とにかく不安であることだけは確かだから、ゆえにこそ私は行動=避難する」といっているような自分でさえも、結局どこかで禁を犯し、何の確信も根拠もないのに自分なりの安全かそうでないかについて常々判定を下してしまっているというのが自身許せないこともあり、それへの拒否感もあってあのような態度をとることとなってしまったのです。
 しかし今回愛チカラさまのお話を聞いていて改めて気づかされたことがあってそれは、「リスクを引き受けないでは成し遂げられるものも成し遂げられない」ということで、つまりやっぱり来福するということはノーリスクではないと。しかしもたらされるリスクに対して得られるかもしれない成果が遥かに勝っている、だから敢えてここにやって来るのだと。ここでいう成果とは、小国の子供たちが笑顔に満たされフツーに過ごせるようになること、であると思うのですが、皆様のその強い意思表明は私にとり、皆様が来福されることを自分の中でどうにか容認するための一助となりましたし、なにより皆様の活動が”自己犠牲”や”献身”なくしては有り得ないことを再認識し、感謝の念をさらに深めた次第です。
 ただ一つだけ申し上げたいのは、愛チカラの掲げる”We are family”がまさしくそうであるならば、自分にとって皆様の家族におけるポジションというものを想像すると実は子どもだということで(自分もまだまだ若輩者なのですが)、それも前途有望な可能性の宝庫のような子ども、のように思えるものですから余計にそうなのですが、つまりは私自身の子どもを此処に居させたくないと思うのと同様に、皆様のことも居させたくないと思ってしまうのが親の心情であるということを、ご理解いただきたいということなのです(それは小国の子どもたちについても同じなのですが)。皆様に無用の被曝をさせないためにはどうすればよいのかというと、それは言うだけなら簡単で、我々がここに留まっていなければ誰もわざわざこちらに来る必要がなくなるわけなのですが、それが実現可能かはともかくとして、家族の一つのありようが相互扶助であるとするならば、愛知の家族たる皆様との関係をより強くしつつある現状にあって、我々はそのこと・・家族に気遣ってもらうだけでなく相手のことも気遣う・・に自発的に気づかねばならないし、ことさら念頭に置いていかねばならないのではないかと思います。
 例えば我々が愛知に居を移し、正真正銘の愛チカラメンバーとなって、今度は小国ではない福島の別のどこかのだれかを、「避難した方がよい」とかき口説くのではなく、「家族になろうよ」という前向きな形でお誘い申し上げ、結果避難や疎開が促進されていく・・自分がかつて願っていた避難の輪の広がりが、今度は家族の輪の広がりという新たな形をとってそのように実現したらいいなぁ、というのはあくまで自分の妄想に過ぎないのですが、より地に足のついた夢の話としての”シェアハウス”もまた、自分にとってはその妄想と同じぐらいとてもいい音で鳴り響いているアイディアの一つであります。
 誰のお財布でそれを用意するかという部分に目をつぶれば、独力で愛知の地に福島からの移住の足がかりを築き上げようというそのプランには、ホームステイや寄宿学校などこれまで取り沙汰されてきた大掛かりな枠組みの話よりも実現性がありそうに思えますし、何より「愛チカラの家族が住む家」という部分には大いにロマンを感じるものがあります。自分がそれに対しどれくらいお力添えできるかは今のところ分かりませんが、単なる夢の話で終わらせたくないと固執したくなるような魅力を備えているのは事実であり、だからこそこうして懇々と思いの丈を綴っているわけであります。多少変奏されてでもこのアイディア、なんとか実現させたいものですね。
 長くなりましたが、今後とも愛知の皆様、小国の子どもたちのことをよろしくお願いいたします。それから、あまり激務に傾倒することなく確りとご自愛くだされますことを、切に望みます。次にお会いできるのが冬のアレなのかは分かりませんが、またお会いできる日を楽しみにしております。敬具

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